めっきり寒くなりました。

月刊『SALTWATER』誌の校了を今月もなんとか終え、散らばりまくった身辺を整理しながらコーヒーを飲んでいます。

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コーヒーと一冊、というミシマ社のシリーズにある北野新太著『透明の棋士』。

これをいま、読んでいます・・というわけではなく(すでに一度読了しております)、この著者である北野新太さんが、ミシマ社運営のウェブサイトマガジン「ミシマガジン」で書かれているご自身のコラム「いささか私的すぎる取材後記」にて、RIVER-WALKのことを取り上げてくださっており、その文章を改めて読んでいました。

いささか私的すぎる取材後記 第56回RIVER WALK

 

彼とはかれこれ10年来のつきあいであり、私(若林)よりも5歳ほど若いのですが、スポーツ新聞の記者としての職業柄もあってか、悲喜こもごも、実にあらゆる経験や知識やユーモアに富んでおりまして、しかもそこに「人生を情熱的にかつ上質そしてロマンティックに生きたい」といった彼特有の願いがにじみ出ているものだから・・。

なにかと教わることの多い相手なのであります。

 

そんな彼がここ数年、情熱を注ぎ表現を試みているのは、将棋の世界です。

そして形としてまとまった第一弾が、上の写真にある『透明の棋士』(ミシマ社)です。

 

将棋って、ご存じのように知のスポーツといいますか、頭脳と頭脳のぶつかり合いですから、それを文章で表現するって、並大抵なことじゃないと思うんです。

まず、当たり前のことですが、将棋のルールを知らなければならない。

そして、将棋の世界の深い部分を描き出そうとするならば、描く対象の棋士が盤上で何を試みたのか? どのような思いで指した一手なのか? この局面での痛恨のミスとはなんだったのか?・・・など、将棋をより詳しく知らないことには書けないのではないか?なんてことを思うんです。

彼の将棋の腕前は知りませんが、少なくても幼少期から将棋に打ち込んでわけではないようで、だったらたとえば羽生善治のこの一手が何を意味しているのかを、この一手の持つ意味を、あなたはどれだけ深く理解できるのですか?・・・なんて、率直な疑問として、彼に聞いたことがあります。

 

「それって・・釣りも同じですよね?」

と彼は答えました。

確かにある釣り名人の話を書くとして、その名人の本当のすごさを書くことは難しいだろうな、と思いました。

ただ、釣りの場合、名人のことを理解しきれない・・という以前に、それ以前にもっと理解しきれない「魚」だったり「自然」が相手でもあるわけで、その部分はなんというか・・ある程度、個人的な予測というか「読み方」をしていくほかはなく、だからあるていどはボンヤリしたものになっても逃げ道があるような気がしているんですね。つまり「魚のことは魚にしかわからない」という逃げ口上により、だったら私がこんなふうに書いたところで間違いとはいいきれないじゃないですか!・・みたいな。

でも、将棋の場合、そこには「まぎれ」みたいなものが少ない気がするんです。自分が「これはすごい!」と思ったことが、もうちょっと自分よりも将棋を知っている人が見たら「いや、フツーだろ・・」ということだったり。

彼の場合、将棋の専門誌上の賞も受賞していたりしますから、そこらへんの問題はクリアしているのだと思います。

あるいは知識においてまだ足りない部分があっても、将棋に詳しい人が納得するだけの筆力というか、何かを持っているのか・・。

 

で、そんな彼の出した一冊目の著作『透明の棋士』。

この本のすごいところは、おそらくは将棋をまったく知らない人でも、たまらなく心を動かされてしまうだろうということです。

 

一編一編はとても短い短編集。そのひとつひとつに、生身の人物が何かを捧げてやり取りをしている凄味が迫ってきます。贅肉を削いだ文体は新聞記者として磨かれた文体でもあるのでしょう。

 

将棋をまったく知らない人でも楽しめる・・といえば、「将棋の子」や「聖の青春」で有名な大崎善生もしかり。

大崎善生さんの著作はいくつか読んでますが、将棋モノはまだ読んだことがありません。

北野新太と大崎善生の共通点と相違点を意識しながら両者の著作を読み比べていく。

それはなかなか贅沢な楽しみのような気がしています。

 

最後に。

北野新太から私が最も刺激を受けていることは、きっと、常に表現を模索していることだと思っています。

たまにしか会えない友であっても、彼は新聞記者であり作家ですから、読者として刺激を受けられるのは幸運なことです。□