春一番が通りすぎ、吹き替えしの冷たい風ですっかり冷えている埼玉南部の事務所です。

寒い時は寒い所のことを考えるといい‥というのは、私の寒い時期の過ごし方から得た知恵のようなものですが、最近では二神慎之介さんのウェブサイト(https://www.sinh11.com/)の「gallery」にある「The White World 北海道の冬」をPCの大画面で眺めながら静かなYouTubeで選んだBGMを流すという嗜みを楽しんでおります。

その二神さんが、今書店等に並んでいる『NHK俳句2020年3月号』から2回にわたって、エッセイを書かれています。

「俳句的日常」という、執筆者が次の執筆者を指名するリレー形式の連載で、二神さんが今回書かれたエッセイのタイトルは「厳しい春、優しい眼差し」です。

内容につきましては、ぜひともご購読いただきたいと思います。ここではネタバレせぬ範囲で私の個人的な感想を少しだけ。

エッセイを読み終えてすぐに思ったのは、二神さんの文章だな、ということ。そしてそれは、私が二神さんの写真をみながら感じるものと、とてもよく似ていました。

「ただ、そこに在るもの」として受け止めることができる、という意味で。

たいていの場合、写真には撮影者の意図が込められます。そして、伝えたがっているのは、その人自身であることが多い。どう感じる?と問われてその答えを待たれていることも多い。それが極端になると、被写体に目がいかなくなることもあります。

私は写真をたくさん見慣れているわけでもないので、もしかするとそれが世間一般に言う「作風」というやつなのかもしれません。

これはあくまでも私の感じ方であり、人それぞれ感じ方は異なりますので‥と、言わずもがななお断りをしておきつつ、二神さんの写真や文章に感じる私見をひと言で述べさせていただきます。

それは「被写体に目が行く」ということです。

「それって作風を感じないってこと?」という誤解を受けそうな流れですが、もちろんそうではなく、それが私が感じる二神さんの写真や文章の「作風」なのだと思います。

誰かがとても好きで、常に誰かを感じていたい、というのであれば、その誰かが自分自身を表現された「作品」を見ていられることは、幸せなことなのかもしれません。

ですが、私が二神さんの写真や文章に感じている好ましさは、その類のものではない気がしています。二神さんの人柄なりのパーソナリティーを感じているわけではない。きっとそうではないと思っています。

そうではなく、私は二神さんの写真をみることで、エッセイを読むことで、その先にいる自然や動物たちと直に通じることができる気がしているのです。

冬の山をひとりで歩き、他に誰もいない雪原で一頭の鹿と出会ったような‥。

媒介者としての二神さんを忘れて、その先の被写体と通じることができる不思議な体験。

ただ、そこに在るものとして。

二神さんの写真がずっとみていても飽きないのは、だからなのではないかと感じています。

そしてそれは今回のエッセイにも確かに在ります。

『RIVER-WALK Vol.2』にご寄稿いただいた「動物写真家の川時間」も再読しました。ここにも在る、そう思い、またうれしくなりました。

『NHK俳句』のリレーエッセイで二神さんにバトンを渡したのは詩人のアーサー・ビナードさん。処女詩集のタイトルは『釣り上げては』。これも読まねば‥。

二神さんのエッセイは、今号と次号に掲載されます。この文章を読んで「いいな」と思い、二神さんの写真をみた方は、きっと幸せな体験をされることでしょう。

〈若林〉□

 

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