今日は北寄りの強風。寒い一日でした。

事務所仕事のかたわら、考えているのは近所の川のこと。

この春の工事にて、それはもうきれいに

こんな感じになりました。

私がこの川をしばしば歩くようになって4年ほど。

定期的な河川敷の草刈りはありましたが、ここまでざっくりと河川敷の藪や木が一気に刈られてしまったのは初めてのこと。

聞けば、台風19号の増水で、改めてこの川の放水路としての役割が問われたのだとか。

夏場は背丈以上にアシやススキが繁茂していましたから、それらが水の通りを悪くしてしまうのだそうです。

これは3年前にオオタカがコサギを襲った痕ですが、奥に見える木も刈られてしまいました。

これは昨年の春ですが、ポツンポツンと川原にあった柳の木も、刈られてしまいました。

これは台風19号の翌日の様子。草も河川敷のアシやスゲなどが倒れています。手前の草地にまで水が上がったんですね。奥に見えている木も今回刈られてしまいました。

まあ、言わば、川というよりも「放水路」としての役割を買われての一斉整備です。

 

別にここで、私は声高に「自然になんてことをするんだ!」などと文句を言いたいわけではないんです。ただ、特に5年以上前から生えていた数本の(この辺りでは数本しかない)木については、タヌキやイタチや多くの鳥などが、貴重な日陰や隠れ家として利用していたな、ということを、改めて自分自身に確認をしておきたいなと思った次第です。

放水路と言えば、我が近所の「潟」は、田んぼから川の本流に水を流すためのコンクリート三面張りの放水路です。

これは5月の姿。田んぼから流れてきた薄い土に草が根を張り緑の陸地が出来あがります。

そこに水が増えたタイミングを見計らって、多くのコイが産卵に来ていました。

これは夏の様子。ガマなどが伸びてぼさぼさです。

サギ類やカワセミ、カルガモなど多くの鳥がこの場所を利用しています。

子育ての場にも・・。

でもやっぱり、水路としての役割を果たせなくなるので、ある時、刈られてしまいます。

環境はガラリ一変ですね。

で、これらをどう見たらよいのだろう?‥ということを、最近はよく考えています。

この後はどうなるんだろう?とか、数十年前はどうだったんだろう?とか(おそらく高度成長期の時代は都市近郊の川や水路はメチャクチャ環境が悪かったとは思います。多摩川もそうですが、今ある姿はだいぶよくなってきた姿でもあると)。

で、定期的に手を入れられ、時に大きく手を入れられ、それでも水は流れつつ川や水路として存在しつつ、環境をその時々で変えてきたのだと思います。

で、そのある非常に短い時間、1年とか3年とか、その川を歩いて動植物を観察して、その環境を利用しているものがこんなにたくさんいて、面白いなあ‥などと関心をする。でもそれは、何と言いますか、約束された場所ではなく、急に大きく変化してしまう環境でもある。で、その変えられた環境の変化に合わせて、動物や植物はまた増えたり減ったりする。

それは「侵略的外来種」と呼ばれるものであったり・・

あ、ここいらへんでは「普通種ですね」なんて言われたり・・

そのような常に人間による環境の急変を前提とした、総体としての「自然」って、なんなんだろうと思うんです。

人知れずタヌキが棲んでいる貴重な川辺なんです‥ってこと?

スモールマウスバス、ミシシッピーアカミミガメがたくさん棲んでいる豊かな川なんです‥ではないってこと?

オオタカの狩り場になっている貴い川です‥ってことでしょうか?

そんなことしたら川が死んでしまいます。優雅に泳ぐコイをいつまでも見られる川にすべきです‥ではない?

 

たとえば海辺に住む人が、身の安全を今より少し与えてくれるだろう防潮堤を否定して、海の見える生活を守りたいと訴えるような‥そんな気持ちにまではなれないとしても、川があって、そこに動物が棲んでいたりするのっていいよねーと思えて、ならば数本しかない木はそこに今来ている動物のために切らなくてもよかったんじゃない? どのぐらい防災には違いが出るのかな? 違いがさほどないのなら、切らなくてもよかったかもね‥と、ふと思うぐらいの感覚なのですが(私は)、そんなことを思っている人って、この川を見ている人の中で、どのぐらいいるのだろうかと考えてしまいました。〈若林〉□

 

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