息を潜めて40分、ようやく一匹が岩場から顔を出した。水中に沈めたカメラを覗き込むようにして少し顔を出してはまた隠れ、次に顔を出したのは20分後。その次は10分後。いいぞ、と思ったら次はまた20分も出てこない。

チチチチ・・・・・・とミソサザイがすぐ目の前の藪から顔を出し、こっちを不思議そうに眺めてはすいめんを走るように飛んでいった。空は青く、風はない。1日のうちに2時間都ない太陽の差し込む角度を計算してカメラを川底にセットしたのが1時間半ほど前。そこからipadにWiFiを飛ばし、姿を見せないように川底にへばりついて何もいない画面を見ながら待ち続ける。理想的な太陽の角度はもう30分ほど。それよりも半分以下に減ってしまったipadのバッテリーが切れてしまうかもしれない。待ち続けているのは、イワナという魚。

イワナはサケの仲間だ。サケと言えば、テレビなどでよく紹介される、雌雄が並んで大きな口を開けて産卵する姿。それと同じように秋になるとイワナも産卵をする。ただ、ひとつ大きく違うのは、サケが一回きりの産卵で死んでしまうのに対し、イワナは産卵後も生き延びて、次の年も、また次の年も産卵をすること。死を前提に産卵するサケとは異なり、イワナは自分の身を守ることも考えるため、とても臆病だ。

もうひとつ。サケが海と川を行き来するのに対し、イワナは山奥の渓流にひっそりと棲んでいる。かつて氷河期には寒冷な海に降っていたとも言われているが、現在は取り残された氷河のように山奥に棲んでいる。しかもここ50年ほどの間に人間が作った堰堤により生息域は狭められ、たとえばここにいるイワナは流程100mほどの世界で半世紀もの間、命を繋いできた。ときおりサケのように海を目指したくなったヤツは、堰堤から滑り落ち、もう二度と戻れない。

この場所には3年前からきているが、そもそもの数が少なく臆病なイワナの産卵に出会えたのは、初めてだった。前の日の夕方、諦めて帰ろうとしたときに、足元で逃げる影を見つけた。朝から1時間歩き、カメラを沈めて、待っている。

ipadのバッテリーが切れてしまえば、撮影はできない。まあ、見るだけでもいいか、と諦めかけたとき、岩陰からスッと二匹のイワナが画面に現れた。潜っているわけでもないのに息が止まる。夢中でタッチしてシャッターを切る。雄が身体を震わせてすり寄り雌を促すと、それに応えて雌は川底で身体を波打たせ、巣を掘り始めた。

遠隔操作のため、約1秒のタイムラグがあり、シャッターチャンスをものにするのは難しい。タイミングの合わない写真を20枚ぐらいは撮っただろうか。ふいに巣を掘り終えた雌が、身体を大きく反らせて巣の中央にうずくまった。雄がものすごい勢いで隣に滑り込んでくる。また息が止まる。産卵だ――。

瞬間、頭で考えるよりも先に指先がシャッター押していた。卵を産み落とす瞬間は長くて1秒。タイムラグを考えると撮影は不可能にも思えるが、ちょうど彼らが口を開けようとした、まさに絶好のタイミングを捕えた・・・・・・はずだった。シャッターが切れ、次に画面が動いた瞬間、彼らは大きな口を開け、産卵の絶頂を迎えていた。雄が精子を放出し、あたりは白煙に包まれた。

その直後に、ipadのバッテリーが切れた。僕はこわばった身体を起こして枯れ枝の陰からカメラの先を実際に目で辿ると、もう雄はいなかった。雌は空を泳ぐ凧のように左右にふらふらと身体を揺るがすと、ゆっくりと「産後の舞」を踊り始めた。サケ科魚類のなかでもイワナだけがする、合理的な説明のつかない、謎の行動。

秋の葉を抜けて屈折した太陽の光が、舞い続けるイワナに格好のスポットライトを当てていた。