それは山裾の民家の軒先にある、ひとまたぎできそうな小さな川だった。コンクリートでできた1mほどの段差が続けてふたつ。40㎝を超えるサクラマスにとっては、なんてことのない高さのはずだ。ところがふたつ目の段差に挑むために助走する水深がないばかりに、コンクリートに体を打ちつけると、水面から胴体を半分以上も出し、バシャバシャと激しく水しぶきをあげて、斜面を滑り落ちていく。次から次に跳んでは滑って、そんなサクラマスを、自分はいまひとり、膝を抱えて眺めている。跳んでは滑り、跳んでは滑り……その循環は、眠れない夜の羊のみたいに心地よく、いつの間にか目を閉じて、眠ってしまっていたようだ。

目を開けると、後ろにじいさんが立っている。川に寄せられた軽トラには、刈り取られたばかりの新米が荷積みされている。

「どこからきた? あ~? NHKの撮影か? だったらサクラはみんなメスだしぃ、オスなら川にいるヤマメだしぃ。サケはここまでは上がってこねえしぃ。この下にある堰は3mあんからな、それを越えられるのはサクラだけだしぃ。まあ、サクラにとっちゃあ、こんな堰、屁でもねえなあ!」

 きっと目を覚ますのを待っていたのだろう。独り言のようにそれだけ言うと、軽トラに乗り込みバタンと勢いよくドアを閉め、エンジンキーを回す。こちらの返事は初めから期待しないタイプのようだ。

「まあ‥、それだけは撮影しねえほうがええんでねえか~?」

 首に下げたカメラに気づいたからだろう。じいさんの視線の先を見ると、そこには、泥と細かいウロコにまみれた投網がひとつ、捨てられていた。

北緯55度。北方の風が吹きわたる海を出発したサクラマスの一群は、知床から北東に延びる千島列島と、カムチャツカ、そしてサハリンに囲まれたオホーツク海を南下する。あふれる太陽光が海面を透過した先で青と銀にゆれる塊に跳ね返ると、その群れは収縮し、拡散し、スピードを増した。数千㎞もの旅路を導くのは太陽コンパス、磁気コンパス、それともスター・ナビゲーション? 月夜の知床半島をかすめ、波先が飛ぶ襟裳岬を迂回して、暖流を巻き込む切り立ったリアスの返し波を感じることができれば、あと、もうわずか……。

投網から、川へと視線を戻す。次から次へと跳んでは、ドブのような斜面を滑るサクラマスをぼんやりと眺めて、ふと思う。自分たちの大航海の果てが、わずか幅2mのどん詰まりであることに彼らが気づくのは、どの段階なのだろう。雪代でにごった河口をくぐる瞬間? 金色に染まる収穫期の田園を抜けるころ? そもそもが母川回帰、つまりは母なる川への里帰りなのだから、最初からすべてを承知したうえか?

目の前のサクラマスは、あきらめもせず、跳んではぶつかり、流されている。羊のように次から次へと循環し、意識と無意識のはざまで、目の前の何ものかに、ただ身をゆだねる、だけのいま……。

眠いし寒い。だが、悪くはない。少なくてもいま、行き当たりの山裾で、膝を抱えてサクラマスを眺めている自分にならば、彼らの心境も、少しはわかる気がするのだ。

(初出 Forget me not 2014)