星野道夫がエスキモーのクジラ狩りについて書いた文章を読んだことがありますか?

毎年の季節移動でやってくるクジラが「リード」と呼ばれる流氷の隙間で待ち構えて空気を吸いに上がってくる瞬間をモリでねらう‥という漁なのですが、漁の成功はリードの具合によって決まるというのです。

リードが開かなければ、クジラは流氷の間に入ってこないし、逆にリードが開きすぎてしまうと待ち構える場所を絞り込めずに、やはり捕ることができません。

つまり、その年のクジラ漁の成功の多くは、リードの開閉具合という「運」にゆだねられているというわけです。

その年、村で初めてのクジラが捕れたと聞いた老婆が海に向かって祈りを込めて踊る姿を、星野はとても印象深く描いています。

なにせクジラは巨大な獲物ですから。

クジラほど巨大ではありませんが、かつてのインディアンにとってはサーモンも、エスキモーのクジラかそれ以上の意味を持つ天からの賜物と言えたのではないでしょうか。

今年もちゃんと川に帰ってきてくれるかどうか。

ちゃんと川に帰ってきてくれるように祈る。帰ってきてくれたと感謝する。

最近は日本の漁獲物においても「祈る」時代に差しかかっている気がします。

夏の終わり。

道端でこんなシーンに出会います。

セミの埋葬? 

セミの死骸を取り囲み、塚のように小石やら木の葉やらが積み上げられています。

実はこれ、アリによるものなんですよね。

アリがセミを埋葬している?……わけではなく、おそらくはセミの美味しい部分をえっさほいさと巣に運ぶために作った「足場」なのだと思います。

こちらは小さな土の塊による塚。

手近にあって運べるものを使うようですが、見事な自然の造形とは思いませんか?

アリ目線で考えてみてください。

毎年、夏の終わりになると、ドサドサッと巨大な、それこそ彼らにとってはクジラのように大きな獲物が落ちてくるのです。まだわずかに息のある巨大な獲物に皆で取りかかる高揚感。セミにとってはたまったものではありませんが、アリ目線で考えると、そこには祈りにも似た何かがあるのでは?と思ってしまいます。

セミと同じく、この時期のアリたちにとってのクジラになりうる生き物がこちらです。

我らがミミズでございます。

ミミズはもう死んでいたかもしれません。アリたちがお肉を運搬しはじめたところだったようで、足場を運んでいるアリもたくさん見ることができました。

夏場、雨の日の後などに路上で大量にミミズが死んでいる様子を見たことがある方も多いことでしょう。

月齢に関係ある説、雨がミミズの嫌がる炭酸ガスを土中に流すためという説、モグラが追い出しているという説などなど……諸説あるようですが、確実にこれ!という実証はまだされていないと思います。

夜中に川底を這いだして二面護岸のコケを食べている様子を観察している私が思うに、なんとなくもっと積極的な夜間の移動の結果……のようにも感じていますが、真相はわかりません。

ですが、アリなどはきっと、わかっていると思います。

「今日、来るな」

「きっと今晩よ」

みたいな興奮のやり取りがあるのではないでしょうか‥。

「埋葬」跡は結構あちこちにありますので、観察してみてくださいね。

「足場」の「建材」を調べることで、なにかわかることがありそうな気もします。夏休みの自由研究がまだ…という学生にもオススメです。

そしてフッと息を吹きかけると「建材」が飛び、食べ残された獲物が露わになります。外側はあまり傷んでない。アリたちは何を食べているのだろう‥。

ともあれアリたちにとってミミズやセミは夏の大きな天からの賜物。どんな歓喜の声を上げているのか、どんな祈りを捧げているのかを想像してみるのも楽しいですよね。〈若林〉□

※「足場」の「建材」説は若林の観察による想像です。なにか別の大きな意味があるのかもしれません‥。 

 

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