十数年ぶりに沢木耕太郎の『敗れざる者たち』を読んだ。なぜ今?と問われれば、文庫の新装に際してノンフィクション作家の北野新太が書いた解説が巻末に添えられたからだ。
北野が沢木に憧れ、ノンフィクション作家の道を目指したことは知っていた。その彼は今、将棋という勝負の世界で生きる棋士を描き、肖像を紡ぐ気鋭のノンフィクション作家になっている。その彼が、自分の人生に多大な影響を与えた作家が勝負に生きる人間を描くノンフィクションに、どのような解説を加えるのか。勝負の世界を描く作家が、勝負の世界を描く作品をどのように評するか。ただ一点、その興味からページを繰りだしたのだ。
過去、すでに読んだことのある作品だから、解説を読むだけでもよかった。ボクシングや野球、マラソン、競馬など、スポーツの世界で勝負する者に書き手自らが関わり、体験し、描く。二十代とうい若き書き手は自分の存在も隠さず作中に息づかせ、そのみずみずしい感性が取材対象と交錯することによる化学反応までをも描くことで、唯一無二の一次的な作品に仕上げる。北野はおそらく、この手法がまとわせる力で「勝負の世界」を描くことを軸に、自らが棋士たちの勝負を描くスタイルも重ね合わせながら解説として論じるのだろうと、そんなことを私は考えていた。
ただ、せっかくだし今一度、6編の短編を読み、それから北野の解説を味ってみようと思った。「せっかくだし」ぐらいの感覚で。
ところが一作目として収められた「クレイになれなかった男」の最後の4行を読むと、これはもしかして……と心にさざ波が立った。
(以下、引用)
しかし、もっと正確にいわなくてはならない。人間には、燃えつきる人間と、そうでない人間と、いつか燃えつきたいと望みつづける人間の、三つのタイプがあるのだ、と。
望みつづけ、望みつづけ、しかし「いつか」はやってこない。内藤にも、あいつにも、あいつにも、そしてこの俺にも……。
(引用、ここまで)
6編の短編はどれもとてもエキサイティングで、流れるように読み進めることができた。二十五歳の沢木が描く、自らも交錯しながら紡がれる物語は、その若さゆえに書けた純粋性を次々と四十八歳の私に投げかけてくる。意外だったのは、十数年前に読んだ時よりも多くの刺激を、この青臭いとも言える文章から感受していることだった。そして改めて『敗れざる者たち』というタイトルを思った。試合や競争の結果は勝負に世界に生きる者にとって重いが、それ以上に若き沢木が求めているのは「焦がれること」であり、「焦がれ切ることができた」者こそが勝者なのだ……と読めた。競争に敗れても焦がれ切ることができれば、それは勝ちなのではないか。もっと言えば、焦がれ切った末に敗れることで、勝利を得ることができるのに、という逆説的な思いも書かれているように思えた。
しかし「焦がれ切る」ことができる人なんて、果たしてどれぐらいいるだろう。それでも沢木の作品を読んで、私を含め多くの人が心を前向きに動かされるのは、焦がれ切ることができなくても焦がれるものを見つければ、それだけでも羨望に値するすごいことなんだぜ、という肯定感が伝わるからなのだろうと思った。
巻末にある北野の解説「Cの想望」は、Ⅴ章まである、とても長い解説だった。そこに書かれていたのは、ほとんど自身の沢木への「焦がれ」そのものだった。沢木の作品への焦がれ、文体への焦がれ、生き様への焦がれ……。いわゆる「解説」的な文章はⅡ章に凝縮されていた。そこには、私が上に書いた感想にも通じる(ように思う)『敗れざる者たち』の持つ魅力が明確に記されている。
だが、そのほかの章は、北野による沢木への「焦がれ」だ。いかに自分が沢木の作品に憧れてきたか、どれほど大きな影響を受けてきたか、人生の指針としてきたか。それらを含めた焦がれが、沢木本人とのエピソードを軸に書かれていく。そして最後には、この本に収められた物語がまだ終わっていないこと。沢木に対する未来への焦がれまでがしたためられていた。
実は私は、北野がここに書いたいくつかのエピソードの原糸のような文章を、十年ほど前に本人の朗読で聴いていた。ぼそぼそとしゃべっているようで太くクリアな声。長身には低すぎるマイクに背を曲げ淡々と語られるストーリーを聴き入った。その朗読の中に、上に引用した「クレイになれなかった男」の最後の4行もあった。久々に読み返した私の心が揺れたのは、薄暗いカフェの一室での北野の朗読を思い出したからだ。BGMはキース・ジャレットの「The Melody At Night, With You」ではなかったか。
「焦がれ」を書いた解説は稀なのかもしれない。だが私の中で最も大切にしている文章の一つは、「焦がれ」を書いた解説だ。
星野道夫の『旅をする木』で池澤夏樹が寄せた「いささか私的すぎる解説」。親交を深めて間もない星野とこれから行おうとしていたさまざまな旅路が、星野の死によって途絶えてしまった池澤の「焦がれ」を書いたものだった。以前、自らのウェブエッセイに「いささか私的すぎる取材後記」というタイトルをつけたように、北野もまたこの特異な池澤の解説から何かを強烈に受け取ったひとりなのだろう。
今回、新装文庫化に際して北野の解説が加わったことは、本人からの久々のメールで知った。そこには生涯で最も重要な原稿のひとつであることが記され、その後のいくつかのメールのやりとりの中では彼特有の軽口でこうも書かれていた。
「ぶっちゃけ意味不明かもしれません。しかし現れたリングで闘わないとしょうがないですね。笑われてもいいです」と。「ズッコケる可能性があるので、くれぐれもよろしくお願いします」とも。
私の予想に反し、北野は沢木のノンフィクションの「手法」について、長い解説はしていなかった。だが意欲的なノンフィクション作家である彼が、そこを強く意識しないわけはない。北野はそのアンサーを、自らが一編の作品の書き手になることで示したように思えてならない。「解説」という名のノンフィクション作品「Cの想望」を書くことによって、北野は『敗れざる者たち』の沢木耕太郎の手法のエッセンスを伝えてみせた。いや、本当に伝えたかったのは手法ではないな。
北野は次のように書いている。
(以下、引用)
沢木耕太郎は「夢の作家」である。
ノンフィクションの系譜の中では「方法の作家」と語られる。正確な評価だろう。彼が続ける「スタイルの冒険」はノンフィクションの持つ可能性を拡げている。
でも、とも思うのだ。「方法」という個性の前には「夢」があるのだと。
沢木耕太郎は自分の夢を生きる。そして人に夢を与える。
(引用、ここまで)
私にとって「Cの想望」は「いささか私的すぎる解説」とも並ぶ、最も大切な文章のひとつとなった。
さて。だとすれば、やはりこれを多くの人に薦めたい。ひとつは私同様、やや年を重ねて情熱という燃料が目減りした年代へ。この文庫に収められた「7編」のノンフィクション作品は、きっとあなたの心の火に、新たな薪をくべるだろう。心を静かに穏やかに温める熾火となるか、場合によっては白い灰に燃えつきる燃焼への渇望にもつながるか。
そしてもうひとつは、やはり若い層。そうだな、たとえば若い頃、沢木耕太郎の文章に心を揺らした学校の教師が、読書感想文の課題図書として新装文庫『敗れざる者たち』を選ぶ。読書の苦手な生徒が提出期日ぎりぎりに「もう読む時間はない!」と解説に頼る。そこで「Cの想望」と出会う、なんてのはどうだろう? 即時的な期待を裏切られズッコケる生徒が数名……だがその中に、きっと強く心を揺さぶられる若者がいる。「焦がれる」ことを見つける意味に気づく。
そんなことを想うだけで、胸が少し熱くなる。〈若林〉□
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