昨日、都内に出た折に竹橋の東京国立近代美術館で開催中の「重要文化財の秘密」を観にいってきました。

お目当てはこの写真にもあるように、高橋由一の『鮭』。

色々と得るところがありましたが、これにつきましては、またいずれ・・。

『鮭』以外に心をわしづかみされたのは、横山大観の『生々流転』、前田青邨の『洞窟の頼朝』、そして岸田劉生の『麗子微笑』でした。

なかでも『麗子微笑』は、これまで切手などを見て、流し目で感じていた印象とはまるで異なる衝撃を受けました。

私はこれまでほとんど絵画鑑賞をしてこなかった者ですので、絵画に関する知識は限りなくゼロであり、ただ感じるままに眺めてきたに過ぎないのですが、それでも・・というか、だからこそ『麗子微笑』は自分にとって特別な絵になった気がします。心が動かされたのです。

『麗子微笑』については、これまでも切手などで目にすることがありましたが、なんでこんなに横に平べったい顔なんだろう・・となんとなくの感想を抱くのみで、特に気にすることもありませんでした。でも今回の展示で知っている絵といえば、恥ずかしながら『鮭』と『麗子微笑』ぐらいでしたから、全く疎い私でも知っている絵、というぐらいには知られているのだと思います。

遠目に見て、まず惹かれたのはその大きさでした。記録によると44.2×36.4㎝ですからA3よりもちょっと大きいぐらいのサイズです。そして私は直感的に「ああ、これは斜めから見るやつだ」と思ったのです。

トリックアートのような、一種の騙し絵のような感覚で、斜め横から見ると、思った通りで横長に平べったい顔は縦に長くなり、リアルな造形としての不自然さが消えていきました。

いや、まったくもって作品の見方としては正しくないのかもしれません。と先にお断りしておきます。あくまでも私の中の勝手な直感であり、勝手な見方です。それでも私は斜めから見た『麗子微笑』に心が動きました。

作品解説に「7歳になった娘・麗子」とありました。

7歳といえば、今なら小学校1〜2年生でしょうか。

幼児の延長ぐらいから、自意識のある子どもへと移り変わる年頃です。父親である作者・岸田劉生が愛娘に向ける視線はどのようなものだったのかはわかりません。ですが、斜めから見た『麗子微笑』は、見る角度によって、わずかずつ表情を変えたのです。それがまさに「幼児の延長から自意識のある子どもへの移り変わり」といった具合に。

なんと言いますか、その、愛らしい幼児の延長である麗子が、角度によっては自意識の芽生えた子どもへと表情を変える、その動きに私はなんだか心が動かされてしまったのです。まあ、平たくいえば、子離れをしていかなければならない父親の、ほんわりと切ないキモチでしょうか。

ちなみに『麗子微笑』には、お札を曲げて上から下から見ると表情が変わる「笑う夏目漱石」的なトリックもあり、斜め下から見ると、スッと微笑が消えた雰囲気も出て、さらにオヤジ的には切なさが増してしまいました。

そんなわけで、鮭と麗子を行ったり来たり・・。

 

岸田劉生がこれをトリックアートとして描いたのかどうかはわかりません。

きっと違うと思います。

あとでネットで調べたところ、岸田は愛娘の麗子を5歳から16歳まで描き続け、油絵だけでも20点以上残されているそうです。見れば、横に平べったい顔はそのままですが「微笑」ではなく、もっとにっこり笑っていたり、無表情だったりとさまざまで、とてもトリックアートとして描いたようには思えない(まあそうでしょう・・)バリエーションでした。

ですが、私の中で『麗子微笑』は実際、かように心を動かされたトリックアートとして沈殿していきました。特別な絵画となったのです。

また機会があれば、きっと観にいくと思います。トリックアートとしての『麗子微笑』を。□〈若林〉

 

【お知らせ】川辺の自然観察をまとめた一冊、『武蔵野発 川っぷち生きもの観察記』発売中です!(アマゾンの販売ページはこちら

★RIVER-WALK Vol.1~Vol.3発売中です!★