朝方、窓を開けるとサッシが笛ラムネのような音をたて、薄いカーテンが帆のように膨らみました。湿った圧しの強い風は、すぐ後に控えた夏の高気圧を予感させます。

そんな埼玉南部の朝。

記憶のスイッチについて考えていました。

記憶のスイッチとは、たとえばある光景や音楽を聞いた時に、とある記憶が呼びさまされるようなこと。フラッシュバックなどはその強烈なひとつかと思いますが、私が考えているのはもっと穏やかで親密で、悪くてもほろ苦い‥ぐらいの懐かしさをともなう記憶のスイッチです。

音楽で言えば、1995年ぐらいに出された小沢健二のアルバム『LIFE』がそうでした。大学の卒論でひとり知床にサケとカラフトマスの産卵行動を調べに行った時、延々とカーステで聴いていたのが『LIFE』で、色々な思いに揺れた時期でもありましたので、後に時折耳にすると当時の記憶がふわっと蘇るような、記憶のスイッチになりました。

今でも「愛し愛されて生きるのさ」のイントロを聴くと当時の記憶が蘇り‥と言いたいところですが、『LIFE』はもうスイッチの役目は果たさなくなってしまいました。歳をとってもやっぱり好きで、今でもたびたび運転時に聴いているからです。つまり聴いているシチュエーションがたびたび上書きされてしまうことで、思い出にまでたどり着かなくなってしまうのですね。

どうやら私の場合、記憶のスイッチを保つには、瞬間冷凍してパッケージングしたら、そのまま静かに寝かせておかねばならないようなのです。なんども冷凍庫から取り出して味わっていると、溶けてふわりとほどけてしまうようです。

そしてもちろん、記憶のスイッチが働くには、①その時の思い出の強さと、②その時にたびたび繰り返していた何か、このふたつが必要です。

たとえば会社勤めをしている一時期、カリントウばかりを食べていたことがありました。昼食とおやつがカリントウ。毎日毎日カリントウばかりを食べていたのですが、ある日、突然「もういいや‥」となって、その日以来、今日までおそらく2回ぐらいしかカリントウは食べていないと思います。カリントウブームの前か後には芋けんぴブームもありました。芋けんぴもそれ以来、2回ぐらいしか口にしていません。

でも、ものすごくひさびさにカリントウを食べた時に、記憶のスイッチが働いたかといえば、そんなことはありませんでした。上に書いた「②その時にたびたび繰り返していた何か(=カリントウ)」はあっても、「①その時の思い出の強さ」が足りなかったのでしょう。

時々、雑木林などを歩いていて、木々の間を斜めに射し込んでくる太陽の光を見た時に、幼少時の懐かしい記憶が蘇ってくることがあります。これも私の記憶のスイッチです。もう友達と別れて家に帰らなければならない時間だという寂しさと、ちょっと帰るのが遅くなってしまった後ろめたさをないまぜにした気持ちがふわっと広がります。夏の午後の雨の後に立ち上るアスファルトの匂いは、プール帰りに自転車で駄菓子屋に向かっている時の、もうなんにも考えなくていい素晴らしき時間の記憶を呼び覚ましてくれます。

また、例えばこんな風景。渓流釣りをしている時の午後3時頃、緑のトンネルの中から見上げた青空も、心の中の懐かしい記憶を揺さぶります。それがなんであるかはわからないのですが、ちょっぴり切なくも悪くはない懐かしさ。そして川を渡る冷たい風を受けて少しブルッと震えたりするのです。

 

前置きがだいぶ長くなりましたが、今日は一週間ぶりに川で水生ミミズを掘ってきました。

ほぼ半月ぐらいの間、毎日毎日行っていたミミズ掘りですが、懐かしさはありませんでした。それはそう。冷凍時間が短すぎるのです。

トビケラの巣を確認して‥

シジミを見やり‥

いましたいました、富山ブラック水生シマミミズ。

そして鈍く光るマッチョ虹色‥的なやつも。

いつものメンツ。特に何も感じないまま砂利をかぶせ、川を上がります。

もしかして水生ミミズの魔法が解けたのか? まだしばらく今後も私はミミズを掘りつづけるのでしょうか? そこには義務などあろうはずもなく、誰の期待に応えているわけでもなく、すべては自分が掘りたいのか掘らなくてもいいのか、その気持ち次第なわけですが‥。

ふと、この水生ミミズを掘りつづけたコロナ下にある2020年の春から初夏のひとときが記憶のスイッチとなって、だいぶ後年の自分をハッとさせたりすることもあるのだろうか?‥なんてことを、ぼんやりと思ったのでありました。〈若林〉□

 

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