2日ぐらい前から空気感が変わりました。 この時期、花粉症に悩まされているワタシとしましては、ようやく最も厳しい時期を過ぎたことが、風を感じただけでわかるんですね。 例年ですと桜が咲くまでの辛抱。地元埼玉ではこれもちょうど2日ほどぐらい前からソメイヨシノが開花しましたから、なんとか今年も乗り切れそうです・・・なんて思って少し標高のある所に行くとまたひどい目にあったりするんですけどねー。
さて。 今回は私が敬愛し信頼する作家・吉村昭を導入に・・。 吉村昭は小説家です。 実に様々な著作がありますが、なかでも私が好きなのは、少年少女の集団自殺の風景を描写した『星への旅』、北海道三毛別の人食いヒグマ事件を書いた『熊嵐』、鳥島に漂流してアホウドリなどを食べて生き延びた人の話を書いた『漂流』、そして樺太が島であることを発見した『間宮林蔵』・・・。 『星への旅』はともかくとして、多くの作品が、徹底的に調べあげた史実を元にして書かれており、“史実小説”などとも呼ばれています。戦記や幕末の話も多いです。 吉村昭は史実を題材にして作品を綴るさい、まず徹底的に調べをしたそうです。膨大な資料を泳ぎ、現地へと足を運び、可能な限り関係者にも会って話を聞く。 つまり、ほぼほぼノンフィクションなのです。 それでも吉村昭は自身をノンフィクション作家とはせずに、小説家としました。なぜなら、いくら徹底的に調べあげても、主人公の心情描写など、細部に関しては、自身で想像するしかないため・・ということです。 できるだけ事実を積み上げて、それでもわからない部分を想像力でおぎない、ひとつの物語として紡ぎだす。 事実と想像の割合は、だれに定められるわけでもなく、すべては自分自身の裁量によるわけですから、あるいは想像をどこまでも膨らませて作品にすることだってできるはずです。 でも吉村昭はそれを拒み、どこまでも事実の積み重ねを行い、その上に少しだけ、そっと想像力の賜物を置いた・・というのが私の抱いている印象です。 一度など、書こうとした主人公の実際の人生があまりにもドラマティックすぎたために、執筆をあきらめた・・という逸話も残っています。 ドラマティックなら、描けばよいではないか!・・と思うのですが、違うようなのですね。むしろドラマティックであるがゆえに伝えづらくなってしまうのだそうです。
で。
ここで、ぐぐいと話を釣りへと向かわせるわけですが・・。
先日、ここ数年、春の恒例となっているサクラマス釣りに、北上川へと足を運んでまいりました。
こちら、サクラマスです。 以前のブログ【山雨と雨子】にも書きましたが、ヤマメが海に降って巨大化して戻ってきたヤツですね。 だいたい50㎝ぐらい。大きくなると60㎝を越えて、ヤマメというよりも、立派なシャケのような魚です。 この魚、一匹釣れれば御の字・・というぐらい釣れる確率の低い魚なのですが、上の写真は私が幸運にも3回目の挑戦となる一昨年に釣り上げた一匹。 去年はダメ。今年もダメ。
今回、熱心にサオを振ったのは、北上川の海への出口である下流域の追波川です。
こちら朝の風景。 素敵です。 素敵・・なのですが、釣り人から見えるのは水面のみ。 この上流に水門があり、そこからくる流れの筋が数本、見えたり見えなかったりするぐらい。 あとはただの水面です。
一カ所に杭のように立つと、あとは一心不乱にルアーを投げ続けます。 寒さにも負けず、花粉症にも負けず(いやかなり負けますが・・)、下手すると朝から晩まで・・。
きっと、はたから見たら、おかしな人だと思います。
この釣り、そんなわけで体力を使います。 ひたすら投げ続けているわけですから。
でも、それと同じぐらい、実は頭も使っているんです。
オホーツク海から下ってきたサクラマスは、我々釣り人の前を通り抜けると、そのまま春~夏~秋と季節をまたいで川を250㎞も北上し、盛岡ぐらいまで上っていきます。秋に産卵するために。 海でどれぐらいの距離泳いできたかはわかりませんが、少なくても河口に到達したサクラマスにとっては、残り250㎞を進みきるための第一関門のような存在が、我々釣り人・・というわけです。 我々はおおよそ海から15㎞ぐらいの所に並んでいますから、距離にすれば5~6%てなもので、もしかしたらサクラマスにとっては一瞬で過ぎ去ってしまう瞬間のような時間なのかもしれません。 その一瞬の時間について、そしてサクラマスがその一瞬に自分のルアーと出会う、もっともっと短い一瞬について、私は延々と想像をしているんです。 ですが・・なにせ事実である情報が少ない。 目の前で釣れたなんていう事実は、もうごちそうのようなもので、「2時間前に1匹跳ねた」とか「昨日は下流のあそこで1本釣れた」とか「2日前に近くの海で網にかかった」とか・・。それぐらいの事実。 あとは水の流れとにごりと干満と水温・・・ぐらい?
それぐらいのちっぽけな事実のかけらを集めては、そのほかの膨大な空白部分を想像でおぎなって釣りをしているわけです。
吉村昭の小説とはエライ違いです。
でも、釣るためには、少なくても集中して釣りを続けるためには、そのちっぽけな事実が何よりも重要であり、その事実に目をつぶってストーリーを描くことはできないんです。ここで言うストーリーとは、こうこうこうやってこうしたら釣れるんでないかい?・・という予測、ですね。
なので、そんな意味では(事実を何よりも重んじる、という意味では)吉村昭とサクラマスは似て非、ならざるモノである、というわけで・・。□
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